毎月15日にkindleで「項羽と劉邦」の歴史小説を連載しているので、当然司馬遷の『史記』を読んでいろいろ考えます。
司馬遷の『史記』には項羽が新安城で20万人の秦兵を虐殺したり、その他の地域でも度々虐殺行為をしていると書かれています。
「20万人」という数字を見て、「いやいやwww数字盛りすぎwww」と突っ込む人は多いでしょう。
私もこの数字を盛りすぎだと思っていて、絶対に嘘だとも思っていますが、あえてこの数字を具体的に捉えてみます。
1945年8月6日、広島に投下された原爆では8万9025人の方が犠牲になりました。(中國新聞)
これまで人類が研究に研究を重ねた結果生まれた1つの爆弾で殺せた人数は8万9025人。
この数字を見ると紀元前2世紀の人間である項羽が、本当に20万人殺したのかと疑いたくなります。
項羽は広島の原爆の2倍以上の破壊力を持つ人間だったということになる。
だからやっぱり『史記』の記述はかなり数字を盛っているんです。
「結局誰もが分かりきったことを言っている」
そうつっこむことなかれ。
私はそこでさらに考える。
「なぜ、司馬遷は数字を盛ったのか」と。
特に日本人は「歴史には正確な事実が書かれている」と考えがちです。
戦国時代という時代があったものの、日本は外国と戦争をした経験が少なすぎる。
そのためどうしても「歴史」というものに対する認識が甘くなってしまいます。
しかし実際には歴史に正確なことなんて書いてありません。
本来歴史とは自分たちの国がいかに素晴らしいかを書き、戦争で負かした国がいかに価値がないかを書くものです。
司馬遷も例外ではなく、『史記』をよく読むと「これは事実ではなく執筆者司馬遷の主観ではないか?」と疑いたくなる箇所がたくさんあります。
だいたいそれぞれの伝の最後に「太史公曰く」なんて自分の考えを書いている時点で『史記』には司馬遷の主観が大量に盛り込まれていることが予想されます。
だから「歴史には事実が正確に書いてある」という認識では諸外国と関わる上でかなり不利になるのです。
それだけじゃない。
歴史認識が甘くなった結果、ただ漠然とした抽象論だけで「平和とは尊いもの」などと語ろうとする。
正直そんなものいくら言葉を重ねて語ったところで、気持ちは満足かもしれないけれど現実は1ミリも平和に向かって動きません。
きれいなことを言うだけなら誰でもできる。
それなのに結局日本は戦争のことを「ただ悪いもの」と見るだけで、戦争の本質を見ようとしない。
ただ戦争を悪いものと言うだけならまだマシ。
「私たち日本人は恥ずかしい過去を持っています」
日本人の多くは自分の国の歴史に対してそんなネガティブな認識でいる。
自分のルーツである歴史に対するネガティブな認識は、そのまま国民としてのアイデンテティに関わってきます。
だから私は普段歴史小説を書きながら思うんです。
「日本人はもっと『歴史を書く』とはどういうことなのかを理解したほうがいい」
自分の国を誇るための演出をするのは当たり前のこと。
それこそ嘘を書いてでも自国を誇るのが古今東西の歴史です。
私自身日本の詰め込み型の歴史教育に疑問を抱いているので「歴史を暗記しろ」とは言いません。
でも、原爆投下だけでなく沖縄戦や空襲などをはじめとする歴史について「もう少し『考えて』ほしい」とは思います。
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